居酒屋

そんなわけで私はその居酒屋で働き始めることになった。その居酒屋はウェイターの男が言った通り、実に忙しかった。夕方6時を過ぎた頃になると、仕事帰りの労働者たちがやってきた。7時ごろには店は一杯になった。客層は、ネクタイを締めたサラリーマンから、いろんな種類の労働者、男性、女性、お年寄り、自分のような大学生まで実に様々だった。私をスカウトしたウェイターは実は店のマネージャーだった。とはいえ何せ人が足りないので、彼は店の掃除から、ウェイター、経理、簡単な料理の調理までなんでもやっていた。彼の他に料理専門のスタッフが二人いた。魚や焼き鳥を料理する焼き場と揚げ物を担当しているのはカツさんという50歳ぐらいの、小太りで、頭が禿げていて、鼻の下にちょび髭をはやした男性だった。彼の本名は覚えていない。刺身や寿司、天ぷらなど和食全般を担当しているのはみんなからテツと呼ばれている20代の男だった。本名はテツジだったと思う。彼の方が年上だったので、私はテツさんと呼んでいた。彼は高校を卒業して料理の専門学校に入り、そこを卒業すると、とある寿司屋で働き始めた。数年はそこで働いていたのだが、職場の雰囲気が肌に合わず、辞めてその居酒屋で働き始めたらしい。私と彼は年が近かったので、お客のいない時間はちょくちょくおしゃべりをしていた。彼は大学生の生活というものに興味を持っていた。とりわけ「合コン」に大変興味を持っていた。ある日、暇なときに彼は私に聞いてきた。
「なぁ、お前合コンに行ったことあるか」
「ありますよ」と私は答えた。「一回だけ」
「どうだった」
「どうって?」
「楽しかったか?」私は一度だけ行った合コンのことを思い出しながら言った。
「あんまり楽しくなかったです」
「嘘つけ」
「本当です。自分にはあんまりああいうのは合わないみたいです」私がそう言うと、彼は遠い目をしながら、
「合コン行ってみてぇなぁ」と言った。私はそんな彼の様子を見ながら、
「そんなに楽しいもんじゃなかったですよ」と言った。すると彼は私の言葉を一切無視して、
「なぁ、今度お前と俺で合コンしようぜ」と言った。
「どうやってやるんですか」
「そこの駅前に二人で行ってだな、かわいい女子大生を見つけたら俺がサインを出すから、お前が合コンに誘え」私は彼の無茶な命令に憮然としながら、
「なんで自分が誘わなくちゃいけないんですか。テツさんが自分で声をかければいいじゃないですか」と言った。すると彼は悲しそうな顔をして、角刈りのパンチパーマで鼻ひげを生やした自分の顔を指さしながら、
「お前このツラで声をかけて、女子大生がついてくると思うか?」と言った。
 その居酒屋にはもう一人ウェイターをやっている男性がいた。みんな彼をゲンさんと呼んでいた。本名はゲンイチロウだったと思う。年は70歳ぐらいで、背が160センチいくかいかないか。髪の毛はふさふさだったが、真っ白だった。彼のことを見ていると、なぜマネージャーが私と私のクラスメートをスカウトしようとしたのかよく分かった。それと同時にその居酒屋がなぜ彼を雇い続けているのか全く理解できなかった。なぜなら彼は全くと言っていいほど仕事をしていなかったから。仕事中のほとんどの時間、彼は座敷の端っこにちょこんと座って、客とおしゃべりをしていた。カウンターの方から料理ができたという声がかかると、とてもゆっくりと立ち上がり、料理の置いてあるカウンターの方にゆっくりと歩いて行った。ようやくカウンターにたどり着くと、並んでいる料理を一品だけ手に取って、これまたゆっくりと客の方へ運んで行った。一度その工程を終えただけですっかり疲れ切ってしまうらしく、料理を運び終わるとまた座敷の端っこに腰を下ろして、客と話しを始めた。彼はとにかくおしゃべりが大好きで、客と話していないときは大体カツさんと話しをしていた。ある日私は焼き場の前にあるカウンターの所に立って、料理が出来上がるのを待っていた。焼き場の内側では、カツさんが大きな焼き網の上に並んでいる肉や魚の焼き具合を見ていて、その横にゲンさんが座りこみ、カツさんに話しかけていた。
「カツさん、ちょっと聞いてくれよ」
「どうした」カツさんは焼き網の上に並んでいる魚から目を離さずに言った。
「おれ息子が二人いんだけどさ。30過ぎて、二人ともまだ結婚もしねぇで俺と一緒に住んでんのよ」
「あ、そう」
「こいつらがどっちもすげぇワルでさ、俺の言うこと全然聞かねぇの」
「なるほど」
「どうすりゃいいと思う?」そう聞かれるとカツさんは焼き網の下にある炭を黙って団扇で扇ぎ続けていた。どうやらカツさんは炭を扇ぎながらゲンさんの質問について考えているらしかった。しばらくするとカツさんは言った。
「そりゃ俺には難しい質問だな」
「なんで」
「だって俺一人もんだから」カツさんがそう答えると、ゲンさんは少し涙ぐみながら、
「俺もうどうしていいか分かんないよ」と言った。私はそんな二人の様子をカウンターの前に立って、話を聞くともなく、料理が出来上がるのを待ちながらじっと見ていた。すると私に気付いたゲンさんが下から私を見上げると、しばらくの間私の顔をじっと見つめた後で言った。
「あんちゃんはいい子だろ?」
「自分ですか?」と私は自分を指さして言った。するとゲンさんはコックリとうなずいた。私は自分が良い子かどうかについて考えてみた。私は少なくともこんな風に親を泣かすほど悪い人間ではないと思った。
「普通だと思いますけど・・・」と私は言った。するとゲンさんは、私の言葉を打ち消すように顔を激しく横に振って、「いや、あんちゃんは絶対いい子だ。顔見りゃ分かるもん」と言った。

 その居酒屋で働き始めてしばらくは、自分がそんな忙しい場所で働けるかどうか不安だったのだが、しばらく働き続けてみると、マネージャーも他のスタッフもみんな優しくしてくれたので、意外にやっていけることが分かった。加えてモツの煮込みと、ポテトサラダと白ご飯は好きなだけ食べてよかったので、晩御飯代を節約することができた。たまに酔っぱらって良い気分になったお客さんから小遣いをもらうことさえあった。2~3か月ほど働いて、仕事を覚えてくると、だんだんとその居酒屋で働くことが楽しくなってきた。働くことが楽しくなってくると、自然と大学からは足が遠のいた。午後の講義に一つか二つは出るようにしていたのだが、半年ほどたつと、大学に行くのが面倒くさくなってきて、そのうち全く大学に行かなくなってしまった。大学の講義を受けるより、居酒屋で働いている方がずっと楽しかったからだ。そんな生活が続いて一年ほど過ぎたころ、ある日実家から電話がかかってきた。それは私が大学を退学になっているという知らせだった。

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