上野駅

結局私と彼はその日ファミリーレストランに4時間ほどいた。駅で別れるときに、「また話を聞きに来てやるよ」と彼は言ってくれた。そんな彼の言葉はとてもありがたかった。なぜなら彼と話をして、随分気が楽になったから。
 アパートに戻ると私は彼と話したことについて思い返してみた。確かに彼の言う通り、このまま大学を休み続ける訳にはいかなかった。なんとか少しでも状況が良い方向に向かう方法はないものか。そう言えば彼は旅の話をしていたな。旅ってどうなんだろう。本当に旅に出たら、失恋の苦しみは和らぐものなのだろうか。考えてみれば、私は大学に入ってからというもの旅らしい旅をしたことがなかった。サークルのメンバーとの旅行も、東京近郊のドライブ程度のものだった。私は藁にもすがる思いで、ひとつ旅にでも出てみるか、と思った。それで少しでも状況が良くなれば儲けもんだし、良くならなければ良くならないで、その時また考えればいいや。私は日本地図をひっぱり出し、目の前に広げてどこに行くかを考えた。お金がないから外国は論外だし、北海道とか沖縄のような遠い場所もダメだった。そんな風にじっと地図を見つめていると、私はある事実に思い当たった。その事実とは、私は太平洋側の土地で生まれ育ったので、日本海側の県には生まれてこの方一度も行ったことがないという事実だった。それに気付くと、私はその近辺を旅してみるのが良いように思えた。その辺りだったら旅費だってそれほど高くはないだろう。私は旅に出ることに決めた。
 ある日の夜中の10時ごろ、私は上野駅の構内にいた。北陸地方の旅行のガイドブックを膝の上に置いて、旅程を考えながら、金沢行きの夜行列車を待っていた。すると一人の中年の男が私のところにやって来た。彼はベンチの上の私の横のスペースを指さしながら、
「お兄さんそこの場所空いてる?」と言った。
「空いてますよ」と私は言った。
「座っていい?」
「どうぞ」
「ありがとう」と彼は言って、私の横に座った。男は年齢は50歳ぐらいで、やせていて、身長は160センチぐらい。頭には野球帽を被っていて、黒のジャンバーを羽織り、ジーンズをはいていた。彼は私の横に座ると、持っていた買い物袋の中から日本酒のワンカップを取り出し、蓋を開けて、それを飲み始めた。私はその姿を見ながら、なぜ彼は狙いすましたように私の隣にやって来たのだろうと不思議に思った。すると彼は私に話しかけてきた。
「お兄さん、学生さん?」
「えぇ」と私は言った。
「大学生?」
「はい」
「旅行かなんかに行くの?」
「そうです」
「いいなぁ。今休みなの?」
「いや、休みではないんですが・・・。」と私は言った。
「うらやましいなぁ。おれ中学しか出てないから」
「そうなんですか」
「あぁ。中学出て、すぐヤクザになったんだ」と彼は言った。「ヤクザ」という言葉を聞いて、私は思わずガイドブックを持つ手に力が入った。
「本当ですか」と私は言った。すると男は真正面から私を見据えて、怒ったように「本当さ。信じないのか」と言った。私は即座に「信じます」と言った。男は私の顔をしばらくじっと見つめると、ジーンズの後ろのポケットから大きな、黒の長財布を取り出し、私の目の前でそれを拡げた。見るとそこには名刺がたくさんはさまれていた。男はそこから一枚の名刺を取り出し、それを私に見せながら言った。
「これは関東の有名な親分さんさ。俺はこの方にとても世話になったんだ」
「そうだったんですね」と私は言った。名刺を見るとそこには筆書きで大きく組と人の名前が書かれていた。「あぁ。俺はこの方のためなら何でもするつもりだった。ところがいろいろもめごとがあって、組にいられなくなっちまった。それで四国に行ったんだ。四国には7年ぐらいいたかな」そう言うと男は持っていた名刺を財布に戻し、別の名刺を取り出し、四国での話を始めた。
「四国を出た後は九州に行った。九州には10年ぐらいいたよ。それからまた東京に戻って来たんだ。今はもう堅気さ」「今はもう堅気」という言葉を聞いて私は少し安心した。男は一本目のワンカップを飲み干すと二本目を取り出し、蓋を開けて、それを飲み始めた。一体何本のワンカップが袋の中に入っているのだろう。
 その後も男は酒を飲みながら、自分の半生の話をし続けた。ほとんどはヤクザだった頃の喧嘩の話だった。私もそんな世界の話は映画や漫画でしか見たことがなかったので、実際にその世界にいた人から直接聞く話は、実に迫力があった。ところが、その男は喧嘩の話になると興奮してきて、身振り手振りが大きくなり、声も大きくなった。顔を見ると、大きく見開いた眼は充血していて、口角にはずっと話し続けているせいで、白い唾が溜まっていた。そんな形相で真正面から私を見て、血なまぐさい喧嘩の話をするものだから、実におっかなかった。私はさも感心した風に大きくうなずきながら男の話を聞いていたのだが、間違って何か男の機嫌を損ねることを言ってしまうと、自分が襲われてしまうんじゃないかと思って気が気でなかった。何とか男の機嫌を損ねずに男の元を去る方法はないものかとあれこれ考えているうちに、ちょうど良いタイミングで私の乗る予定の列車がゆっくりと駅の構内に入って来た。話が一段落したタイミングを逃さずに、私は目の前の列車を指さしながら男に言った。
「お話し中申し訳ないんですけど、もうあれに乗らなくちゃいけないんです」
すると男はひどく驚いて、「もう行くのか」と言った。
「残念ですけど」
「まだ面白い話がいっぱいあるのに」と男はがっかりしたように言った。
「お聞きしたいのはやまやまなんですが」私はそう言うと、ガイドブックをバックパックの中に入れ、それを背中にしょって、ベンチから立ち上がった。
「じゃ、失礼します」
「じゃあな」と男は言った。私は振り返り、列車に乗った。

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