西山ハイツに住み始めて半年ほどがたち、ようやくその生活に慣れてきたころ、居酒屋のアルバイトだけでは生活費が足りないことに気付いた。何かもう一つぐらい別のアルバイトをやらないと、そのうち貯金が尽きてしまうことが分かった。何をしようかあれこれ考えていたところ、フリーペーパーのサークルで知り合った先輩と電話で話す機会があった。彼は私より二つ年上で、私と同じようにあまり勤勉な学生とは言い難く、大学を退学になっていて、アルバイトをしながら毎日ぶらぶらと生活していた。自分と似たようなタイプで気に入られたのか、彼はたまに私に電話をしてきて、二人で飲みに行くことさえあった。その日もお互いの近況をだらだらと電話で話していた。私がお金に困っていて、居酒屋のアルバイト以外に別のアルバイトを探していることを言うと、彼は「いいのを知ってるから紹介してやろうか」と言った。「何のバイトですか?」と私が聞くと、「工事現場の作業員のバイトさ」と言った。
「工事現場のバイトって大変なんじゃないですか?」と私は言った。
「大したことないよ。そりゃたまにきついときもあるけどな。でも自分の好きなときに仕事を入れることができるし、1日働けば1万ぐらいすぐ稼げるよ。支払いも働いた次の週にはしてくれるし」
「本当ですか、いいですね」と私は言った。そのころ私は居酒屋のバイトで1日7千円ぐらいしか稼いでいなかった。
「基本は9時から6時だけどさ。作業が早く終わったら早く帰れるし。あとな、運がよければすげぇ給料をもらえたりすることもあるぞ」
「どういうことですか」
「俺はまだそんな良い目にあったことないけどな。今建設業界ってすげぇ金が余っててさ。俺の知り合いで1日8時間働いただけで、10万稼いだ奴がいるよ」
「どうやって1日で10万も稼いだんですか?」と私は驚いて言った。
「作業員は1日の仕事が終わると、現場監督が仕事の確認票に作業時間とかその日の給料とか書き込むんだけどさ。俺の知り合いは、現場監督に自分の欲しい金額を書いていいよって言われたらしいんだ。知り合いは最初その監督が自分のことをからかっていると思ってさ。何度も「本当にいいんですか」って聞いたんだけど、その監督は真顔でいいって言うらしいんだ。それでそいつはなんと100万円って確認票に書いて監督に渡したらしいんだ。そしたらその監督はそれを見て、眉一つ動かさず、「オッケー」と言って確認票を受け取ったらしくてさ。ところが後日その確認表を見た事務所の人間がおったまげちゃってさ。本人とその現場監督両方に連絡取って何度も確認したらしいんだ。そしたらどうやら本当らしいことが分かってさ。事務所は困っちゃってだな。結局100万は後々他のスタッフに対しても問題があるので、10万でその現場監督の会社と話をつけたって訳さ」「10万でも十分いいですね」「だろ。何人かそんな奴知ってるぜ。ま、俺はせいぜい最高で2~3万ぐらいしかもらったことないけどな」先輩の話をずっと聞いていると、なんだかそのアルバイトは良いこと尽くしのように思えてきた。「興味あるなら、電話番号教えてやるから事務所に電話してみなよ」と彼は最後に言った。「ぜひお願いします」と私が言うと、彼は会社名と事務所の電話番号を教えてくれた。
先輩と話をした後もいろいろとアルバイトを探してみたのだが、なかなか条件が合うものが見つからなかった。早く見つけないと本当に貯金が尽きてしまいそうだったので、結局先輩が教えてくれた工事現場のアルバイトを試してみることにした。先輩からもらった電話番号に電話すると、女性の事務員が出た。知り合いにそちらの会社を紹介されて、そちらの仕事に興味があるので一度話を聞いてみたいと女性に言うと、「一度事務所に来てください」と言われた。次の週その事務所に話を聞きに行くことになった。
※
その事務所は都心のとある大きな街のとある高層ビルの中の一室にあった。エレベーターを降りるとそこには汚れた青色の上下のつなぎの作業服を着た建設作業員が大勢たむろっていた。私はその作業員たちの間をすり抜けて、部屋の中央に進んだ。そこには事務所のカウンターと思しきものがあり、作業員たちが列を作っていた。私はその列の最後尾に並んだ。
自分の順番が来ると、私は目の前にいる女性事務員に面接を受けに来たことを伝えた。名前を聞かれたので、自分の名前を言うと、その女性事務員は机の上にあるファイルに目を落とした。私の面接の確認が取れると、顔を上げ事務所の奥にある小部屋を示しながら、
「あそこの部屋で座って待っててください。係りの者が行きますから」と言った。
「分かりました」と私は言って、その部屋に向かった。
その部屋は6畳ほどの小部屋で、中には一つの白いテーブルと三脚の椅子が置いてあり、部屋の隅には緑色の観葉植物が置いてあった。私は椅子の一つに座り、係りの人が来るのを待った。
しばらくすると、紺色のスーツにネクタイを締めた、30代に見える男性がニコニコと私に微笑みながら部屋に入ってきた。その男性は私のそばまで来ると、「こんにちは」と言った。
「こんにちは」と私は言って、軽く頭を下げた。男性は椅子を引いて座り、書類を机の上に置いた。
「どうやってうちのことを知ったんですか」と男性は言った。
「私の知り合いがここで働いていて、彼から紹介されました」と私は言った。
「そうですか」と男性は言った。それからその男性はその会社の仕事の内容について詳しく説明をしてくれた。大まかなところはあらかじめ先輩が教えてくれた話に間違いはなかった。簡単に言えばそれは建設現場の補助作業だった。建築資材を運んだり、建設現場の掃除をしたり、解体をしたり。建設現場の仕事以外に引っ越しの仕事もあるということだった。好きな時に仕事を入れることができることや給料の支払いの話も、先輩から聞いていた話に間違いがなかった。そんなわけで男性の説明が終わるころには私の心は決まっていた。私はその会社で働いてみることにした。
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