こうして西山ハイツでの私の新しい生活が始まった。住み始めてすぐに、そのアパートはろくでもないアパートであることが分かった。その原因のほとんどは私の部屋の真下に住んでいる女管理人のせいだった。住み始めて半年ぐらい、彼女は週に一度か二度、私のところに何かしら文句を言いにやって来た。そのほとんどは、私の部屋から出てくる音がうるさいというものだった。テレビの音がうるさいとか、電話の声がうるさいとか、私の足音がうるさいとか。それから私はなるべく部屋の中を静かに歩き回るようにし、電話で話すときはいつもささやくように相手と話しをした。テレビとかラジオについては、いちいち音量の加減を気にするのが面倒くさくなり、部屋の中のすべての音響機器にヘッドフォンを使うことにした。それからというもの彼女が私の部屋にやってくる回数も減った。ところがある真夏の夜のこと。私がベランダに出て、夕涼みをしながら本を読んでいると、下の方からドアの開く音が聞こえてきた。それに続いて女管理人の、「ちょっとあんた、テレビがうるさいよ!」と怒鳴る声が聞こえた。私はベランダで静かに本を読んでいただけなので、何もうるさいはずはなかった。私は本を読むのを止め、部屋の中を振り返り、何も音が出る機械を使っていないことを確認した。そしてベランダから顔を出し、下にいる女管理人に向かって、「テレビもラジオも使ってませんよ」と言った。すると女管理人は私の方を見上げながら、疑り深そうに「本当かい?」と言った。私は自信たっぷりに「本当です」と言った。すると彼女は自分の部屋に引っ込んだ。私は彼女が一体次にどういう行動に出るのだろうと思って本を読むのを止め、階下で起こっていることに耳をすました。すると、玄関のドアが開き、カツカツカツと音を立てて、突っ掛けで誰かが回廊を歩く音が聞えてきた。そして一階のどこか別の部屋の玄関の扉が開き、二人の女性が何やらヒソヒソと話しこんでいる声が聞えてきた。しばらくするとその会話は終わった。私は興味津々でベランダに座り続けていた。すると再び下の方から女管理人の声が聞えてきた。彼女は珍しく申し訳なさそうなそうな声で、「ごめん。横だった」と言った。
シャワーについては十分注意して使っているつもりだった。ところがある日の午後のこと、居酒屋のアルバイトに行く前にシャワーを浴びていると、私の部屋の玄関のドアをガンガンと激しくたたく音が聞えてきた。どうせ下の女管理人だろうと思いながら、私はシャワーを浴びるのを止め、バスタオルで体を拭き、Tシャツと短パンを着て玄関に向かった。玄関の扉を開けると、案の定それは女管理人だった。彼女の顔を見ると、鬼のような形相をして怒っていた。
「どうかしましたか?」私はまだ濡れた頭のままそう言った。すると女管理人は大きな声で、
「あんたあそこに水かけてただろう!」と怒鳴った。
「かけてませんよ」と私はムッとして言った。
「いや、かけてたはずだ。だって今天井から水漏れがして、下の台所がびしょぬれなんだ!」彼女はそう言うと、いつものように突っ掛けを履いたまま、私の横をすり抜けて、私の許可を得ることなく部屋に上がってきた。部屋に上がると彼女は一直線に風呂場に向かい、風呂場の扉を開けて中を覗き込んだ。そして風呂桶の方を指さしながら私を見て、まるで鬼の首を取ったかのように、「ほら、やっぱりだ!あそこがびしょ濡れじゃないか!」と言った。
「そりゃ少しぐらいは濡れるでしょう。でも言われた通りちゃんとあそこに水がかからないように使ってましたよ」私はうんざりした調子でそう言った。すると彼女は「ついてきな」と言って、私の部屋を出て階下に向かった。私はしぶしぶ彼女の後をついていった。
一階につくと、彼女は自分の部屋の玄関の扉を大きく開けて、中を指さしながら私に言った。
「見な。こんなんなっちゃうんだよ」私は玄関に入り中を見た。玄関の横の奧の方にある台所を見ると、確かに彼女の言った通り、天井から水がしたたり落ちていて、床は水浸しになっていた。彼女と同じ年ぐらいの痩せた男の老人がしゃがみこんで、雑巾で床を拭いていた。恐らく彼女の夫だろう。どうやら彼女の言ったことは本当だった。私がシャワーを使い始めて、これが起こったのだとすれば確かに私がシャワーを使ったのが原因なのだろう。でも言われた通り、壁側に身体をよせて、石鹼置きのところに水がかからないように注意を払って使っていたはずなのだが・・・。私は幾分弱気になりながら、申し訳なさそうに、
「ちゃんと言われた通り、気を付けて使ってたと思うんですけどね」と言った。すると彼女は、
「ちゃんとやってくんなきゃ困るんだよ。今度やったら出てってもらうよ!」と大声で怒鳴った。
「分かりました・・・」と私は小さな声で言った。
こんな風に女管理人が私に文句を言ってくるときは、しばしば原因が分からなかった。原因が分かればそこを直せば事態は解決されるので話は簡単なのだが、原因が分からないと、何をどう直せばよいか分からず、事態が改善されないままただ女管理人に怒られ続けられるので、そんなときはノイローゼになりそうだった。結局女管理人が私の部屋に来なくなり、平穏な生活が送れるようになるまで半年ほどかかった。
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