翌月から私は西山ハイツに住みはじめた。引越しをした翌日、運び込んだダンボール箱の中身を開けて、新しい生活をはじめる準備をしていた。すると誰かが私の部屋の鉄製のドアをガンガンと大きな音を立てながらノックしているのが聞こえた。引っ越したばかりなので、私を訪ねて来る人などいるはずもなく、一体全体誰だろうと思いながら、準備の手を止めて立ち上がり玄関の方に向かった。玄関のドアを開けると、そこには70歳ぐらいの、背の低い、短髪のパーマをかけた老婦人が立っていた。
「どちら様ですか?」と私はその老婦人に聞いてみた。するとその老婦人は下からまるで検分するように私の顔をじっと見つめていた。
「あんた今度新しくこの部屋に入った人かい?」
「そうです」と私は言った。
「あたしはこの部屋の真下に住んでるもんだけどさ、このアパートの大家の親戚で、ここの管理をまかされてるもんさ。今日はこのアパートのことであんたに話しておきたいことがあるから来たよ」
「そうですか」
「ちょっと上がるよ」彼女はそう言うと、つっかけを履いたまま、私の部屋に上がってきた。外履きを履いたまま他人の部屋に上がるなんて、なんて失礼なんだろうと思って私は言った。
「すいません」女管理人は振り向いた。「つっかけを脱いでもらえますか?」私がそう言うと、女管理人は眉を吊り上げて私の顔を見、大きな声で「何だってぇ!」と言った。私は真面目な顔をして再び言った。
「つっかけを脱いでもらえますか」すると女管理人は憎たらしそうな顔で私の顔をねめつけながら、次のように吐き捨てるように言った。
「かまやしないよ。どうせ最初から汚ねぇんだから」彼女は私の言うことを無視して、突っ掛けを履いたまま私の部屋に上がってきた。部屋に入ると彼女はまず風呂場に向かった。風呂の扉を開けると彼女は振り向いて言った。
「ちょっとこっち来な」わたしは言われた通り、彼女のそばに言った。彼女は風呂場の扉を大きく開けて、中の風呂桶を指さしながら言った。
「あそこの風呂桶の真ん中に石鹼置きが付いてるだろう」私は風呂場の中を覗き込み、彼女が指さしている先を見た。確かに彼女の言う通り、風呂桶の真ん中に鉄製の石鹼置きが付いていた。
「ついてますね」と私は言った。
「風呂入ったり、シャワーしたりするときにあそこに水がかからないようにしておくれ」と彼女は言った。その石鹼置きは風呂桶のちょうど真ん中について、そこに水がかからないようにして風呂を使うのは至難の業のように思えた。
「どうしてですか?」と私は聞いてみた。
「あの石鹼置きと風呂桶の間に隙間があってさ。あそこに水がかかると、壁の内側に水が入って、下の部屋に水漏れすんのよ。ここの真下がうちらの台所になってるからさ。水漏れしたら大変なことになるから。気をつけておくれ。あんたの前にここに住んでた女子大生、あたしが何度言っても言った通りにシャワーを使わないからさ。三か月で追ん出してやったよ。あんたも気を付けた方がいいよ」彼女は誇らしげにそう言った。そんな大変な事ならさっさと修理すればいいのにと思ったが反論せず、「分かりました」と私はおとなしく言った。風呂場の説明が終わると、今度は彼女は居間に向かった。居間でも相変らず彼女は土足のままだった。居間で私と彼女が二人きりになると、彼女は壁を平手でばんばんたたきながら私に言った。
「この壁さ、作りが薄いから音には気を付けておくれ。テレビとかラジオとか電話とかさ。昼でも夜でも。ちょっと大きな音出すと、すぐ下に聞こえるから。あたしら年寄りは音が一番神経に障るんだよね」
「わかりました」と私は再び言った。
「あと、ごみね」と彼女は言った。「ごみはちゃんと燃えるごみと燃えないごみを分別して出しておくれ。でないとあいつら持ってかないから」そこまで言ったところで彼女は突然黙り宙を見た。どうやら私に言っておくべきことを一生懸命思い出そうとしているようだった。しばらく考えて思い出すことができなかったらしく、あきらめたようにして私に言った。
「まだなんかあったような気がすっけど、思い出せないから、思い出したらまた来るわ。じゃ、よろしく頼むね」彼女はそう言うと、突っ掛けを履いたまま私の部屋から出て行った。
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