旅から戻って

旅から戻って1週間後ぐらいに、再びダンス部のクラスメートに会った。「どうだった?」と彼が聞くものだから、一通り旅先で起こったことを彼に話してやった。上野駅で元やくざに話しかけられたこと。日本海や黒部ダムのこと。長野で美味しいそばを食べたことや軽井沢のことなどなど。「少しは失恋の傷は癒されたか?」と聞かれたので、「全然だめみたいだ」と私は答えた。すると彼は怪訝な顔をして、「そうか。おかしいな」と言った。
 旅から戻ると私はできるだけ大学に行くようにした。とは言っても、午後の講義を一つ出るぐらいが関の山だった。あるときフリーペーパーのサークルの部長とも電話で話す機会があった。彼女には体調がすぐれないので、一旦サークルをやめさせてくださいと伝えた。すると彼女は、「残念ね。せっかくみんなで楽しくやってたのに」と言った。
 それからしばらくは午後の講義に一つ、調子の良いときは二つ出て、その後は学部のクラスメートと会ったりした。会う場所は学内のレストランか、大学の近くの喫茶店か、近所の居酒屋だった。居酒屋はいつも同じ居酒屋だった。なぜその居酒屋なのかと言えば、そこはとにかく安かったからだ。一番安いつまみを頼んで、焼酎のボトルを入れておけば、いつも二千円を少し超えるぐらいで十分酔っぱらうことができた。ある日その居酒屋で、ダンス部のクラスメートと焼酎にレモンを入れて、ソーダで割ったものを飲んでいた。するといつもウェイターをやっている、50歳ぐらいの色黒で、お腹の出た体格の良い男性が私たちのところに注文した料理を運んできた。
「ホッケお待ち」と彼は言って、私とクラスメートの間に焼いたホッケを置いた。
「ありがとうございます」と私たちは言った。男は去っていくかと思いきや、その場に立ちつくしたまま私たちを見下ろし、
「お兄さんたち、学生さん?」と聞いてきた。私とダンス部のクラスメートは彼のことを見上げて、
「そうです」と答えた。
「お兄さんたち、暇してんの?」と男は続けて聞いてきた。私とダンス部のクラスメートは突然思いがけない質問をされたので、「なんでそんなこと聞くんだろう?」といった風情で、顔を見合わせた。
「どうしてですか?」と私は彼を見上げて言った。
「お兄さんたちたまに見るからさ。暇してんのかなと思って。暇なんだったらさ、うちの店手伝ってくんない。うち忙しくて人手がたりないのよ」と言った。私とダンス部のクラスメートは再び顔を見合わせた。あまりに突然仕事の誘いを受けて、私たちは何と答えて良いか分からなかった。私たちが黙ったままでいると、男はまるでしびれを切らしたかのように、
「帰るまでに返事ちょうだい」と言って、カウンターの方にいそいそと戻っていった。
「帰るまでに返事くれって言われてもなぁ」と私はあきれたように言った。ダンス部のクラスメートは焼酎のソーダ割を一口すすり、目の前の壁をじっと見ていた。しばらくすると彼は言った。
「お前、ここで働いてみたら」
私は驚いて彼を見た。
「いつまでもさ、家にこもって彼女のことばかりうじうじ考えていてもしょうがないよ。こんな忙しい場所でアルバイトでもしてみたら、意外と気が紛れるかもしれないよ」
「でも、講義に出る気も起らないのにこんな忙しそうな場所で働けるかなぁ」と私は自信なさげに言った。
「そんなの、やってみなくちゃ分かんないだろ。やってみて、できそうなら続ければいいし、無理だったら、やめちまえばいいのさ」
「そんなんでいいのかなぁ」と私は半信半疑で言った。
「いいんだよ」と彼は言って、再び焼酎のソーダ割をすすった。
 私は彼と別れて、アパートに戻ると、彼の言ったことについて考えてみた。本当にあの居酒屋で働いたら、気が紛れるのだろうか?彼の最初のアドバイスは見事に外れた。今度のアドバイスはどうなんだろう。彼は別に何か根拠があって言っているようには見えなかった。でも確かに彼の言う通り、アパートに長い時間こもって考え込んでばかりいるのは良くないかもしれないな。一か八かやってみるか。無理だったらやめちまえばいいんだから。1週間ほどあれこれと考えて、私はその居酒屋で働いてみることに決めた。
 ある日、大学の講義が終わった後、私は再びその居酒屋に行ってみた。それは午後の4時過ぎぐらいだったと思う。その居酒屋はとある建物の地下にあった。らせん状の階段を下りて、入口の前に立つと、扉が三分の一ほど開いていて、取っ手のところに「準備中」の札がかかっていた。私は開いている隙間から頭を入れて、中を覗き込んだ。店の中は真っ暗だったが、ずっと奥の方で人が動いている気配がした。
「すいません」と私は言った。中からは何の反応もなかった。
「すいません!」と今度は大きな声で言ってみた。すると中から「今行くよ!」という大きな声が返ってきた。私が入口のところに突っ立っていると、暗闇の中から、重そうな黄色いプラスチックのビールケースを抱えた大柄な男が現れた。近くまで来るとそれは私たちに声をかけたウェイターの男だった。男は私の目の前まで来ると、持っていたビールケースを床に置いて、私に言った。
「何か用?店ならまだだよ」どうやら声の調子から、1週間ぐらい前に私をアルバイトに誘ったことを全く覚えていないように見えた。
「先週ここで飲んでいた時に、アルバイトしないかって誘われたものですけど・・。」と私は言った。すると男は目を細めてしばらく私を見て、
「あぁ。あんときの兄ちゃん。どうしたの」と言った。
「あれからいろいろ考えてみたんですけど、ここで働かせてもらえないかと思って」と私は言った。すると男は嬉しそうにニッコリ笑って「本当。良かった。もう一人は?」
「私だけです。彼は忙しいんで」
「そうか。で、いつから働けるの?」
私はいつから働けるか考えてみた。別にそこまで具体的に考えて来た訳ではなかった。しばらく考えて、
「来週くらいからではどうですか?」と私は言った。すると男は間髪を置かず、
「今日はどう?」と言った。
「今日ですか!」と私は驚いて言った。まさか今日から働けと言われるとは思っていなかった。私はその日働けるかどうかについて考えてみた。が、特に何の用事もなかったし、不都合なことも何もなかった。
「今日大丈夫ですけど。私今まで居酒屋で働いたこと全くないんですが」
「大丈夫、大丈夫。俺が教えてやっから。とりあえずこんな感じでエプロン着けて。そこのレジの下に何枚かあるから好きなやつ選んで」と男は言うと、自分が腰に着けているエプロンを指さした。
「分かりました」と私は言った。
「5時開店だからさ。ちょっと手伝ってよ」と彼は言った。

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